1万人にひとりの素質
2005年 10月 31日
(ホームページの「ひとりごと」から。作成日は月までしか書いてなかったので、日時分は出たとこ勝負…)

ウィーンに住んでる友達からメールがあった。彼女はドイツ人のご主人と、家族ぐるみで日本から「移住」したのだけど、土地柄、ドイツ語のクラスには各国からの音楽留学生がいるらしい。中に韓国人の若い女性がいて、400万もするような金のフルートを持ち歩いているという! それに対してある人が「ヨーロッパ人なら、プロになって自分のお金を稼いで、それで買うような楽器だ」「最近のアジアの女の子たちは、親がお金を持ってるから、学生の身分でも持ってるのさ」と、はき捨てるように言った… とそのメールに書いてあった。

音楽に限らず「芸術」と呼ばれるものは、それで「食べていく」のは非常に厳しい世界だ。
マーケット、つまり受け皿の「絶対数」が少ない。

技術的なレベルがいくら高くても、表現力がいくらあっても、人がお金を出してでも「見たい」、「聴きたい」というものを提供するのでなければ「食べて」はいけないわけだけど、人がお金をだしてでも「見たい」「聴きたい」と思うものは、所詮そんなに多くないと思うのだ。衣食住にかけるお金の方が先だもんね。

逆に言うと、それで「食べて」はいなくても、一概にアマとかヘタとかは言えないことになる。

そこで問題。日本て、そういうアマとプロの境が、なんか非常に分かりにくい社会になってるような気がするのだ。日本人は「お稽古事」が大好きな国民だと思う。それはそれで非常に結構なことなんだけど、個人負担の「お稽古事」でプロになるのは、実は大変難しいと思うのだ。それがなんか曖昧になって来ている。

アマチュアがお稽古の成果を人に見てもらいたい。費用を負担して、発表会や展示会をする。自分でお金を出して見て(聴いて)いただくのだから、これはフツー。

プロは、人がお金を出してでも「見たい」「聴きたい」というものを、お金を取って見せたり聞かせたりする。これもフツー。

でも「お金を取る発表会」、つまりチケットや入場券を買っていただいて、自分が見せたい(聞かせたい)ものをやる、みたいなのは、あまり「フツー」じゃないような気がするんだけど…

例えばアマチュアとしてはいい線行ってるっていうような人と、プロなんだけど、或いはプロになりたいんだけど、未だそれでは食べていけないっていうような人が渾然一体となった、かなり巾の広い層があるような気がするんですね。

少し話が逸れるけど、ローザンヌというバレエのコンクールがある。このコンクールで入賞すれば、世界の一流レベルのバレエ学校で勉強し、世界的なバレエ団に入団する道が開ける。

昨年だかのコンクールで、世界的に著名なフランス人振り付け家(モーリス・ベジャール)が、ちょっと思わせぶりなコメントをしていた。出場者の出身国が昔とは違って来ている、それがいいとか悪いとかいうんじゃないけど、コンクールの性格も時と共に変わるということだ…。

予選通過者を見ると確かに、日本や韓国といったアジア系、そして東欧圏からの参加者が多くて、西欧人は数えるほど、バレエ発祥の地といわれるフランス、イタリアに至っては皆無に近かったんじゃないだろうか? 正確な数字は覚えてませんが。

これだけ見ると、「日本のバレエもレベルが上がった、ヨーロッパよりスゴイじゃないか!」って思いませんか? 

でもちょっと待って。勘違いしちゃいけないと思う。フランスやイタリアでバレエやってる若い人は、ローザンヌのコンクールで賞を取らなくても、一流のバレエ学校で学んで、一流のバレエ団に入る道が開けているのだ。経済が行き詰っている東欧諸国のように、逆に経済力はあるけど文化的な受け皿が少ない東洋諸国のように、なんとかこのコンクールで入賞して自分の国を出たい、世界的なバレエ団がいっぱいあるところで勉強するチャンスを掴みたい、などと思わなくてもいいんじゃないか、と思う。

もちろん優れた素質とたゆまぬ努力は要求されるだろう。でも「彼の地」には、国立のバレエ団が同じ国の中に複数あって、それぞれ本拠地となる立派な劇場があって、専属のバレエ学校があって、素質のある子供たちが各地から出てきて、恐らく奨学金を受けて勉強している。そして民間の教室で勉強している若者たちにも、自国・他国を問わず、様々なバレエ団のオーディションを受けるチャンスが、日本よりもずっと大きく開かれている。バレエ団の数が違うし、それになんせ、オトナリの国に電車でも行けちゃうんだからね、ヨーロッパって。

つまりね、ローザンヌのコンクールに出て来なくったって、あそこで入賞するくらいのレベルの若者たちが、バレエの本場にはゴロゴロいるってことなのです。

たとえて言うならばこういう事なのだ。
日本で世界一流のバレリーナになろうと思ったら、偶然素質があって、偶然バレエを始めて、偶然いい教室が近くにあって、偶然いい指導者たちに恵まれて、偶然いい家庭環境で海外留学したり、海外のコンクールでチャンスを掴めたりしなくてはならない。
日本で、例えば1万人に1人くらいの素質のある人が、各種の幸運に恵まれて初めて、更にその1万分の1、つまり100万人に1人くらいの人が、そういう道に辿りつく、ことができるとしたら、「彼の地」ではもしかしたら、100人に1人くらいの素質があれば、その素質を伸ばしていくことができるような社会のインフラが整っている、と思うのだ。
最後まで到達できるのは、その100人に1人の素質がある人の100人中1人、つまり1万人に1人だけだとしても、です。

1とか100とか1万とか100万っていうのはまあ、話を分かりやすくするためにキリのいい数字を選んだだけなんだけど…

「彼の地」で100人に1人の素質があった残り99人は、多分90人くらいは途中でプロの道を諦めるのかもしれない。そして最後の9人くらいがプロになって「1万人に1人」の才能と努力の持ち主を脇から支えるのかもしれない。でも日本では、この99人が、9と90にハッキリ分かれないで漂っているような気がするのだ。

でね。芸術のあり方、みたいなものを考えると、「彼の地」の方が正しいような気がするねん。

1万人に1人の素質がある子供は、親の負担に頼らなくとも、世界的な芸術家に育つことができるような、そんなあり方。それは同時に、1万人に1人の素質のある芸術家を、みんなが懐をあまり痛めずに見ることができる、そんなあり方でもある。

ちょっと飛躍するけど、そういう社会では、幾ら親にお金があっても、未だそれで「食べて」はいけない子供に金のフルートを買い与えるというような感覚は育たないような、そんな気もする。

親に金のフルートを買ってもらうのと、「見てもらいたい」ものを「見てもらう」のに「お金を貰う」のって、どっかでつながってるように思ったけど… こうしてみると、つながってないかしらん???

2005年10-11月
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by peque-es | 2005-10-31 23:30 | Japón,Japan,Nippon..
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